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志賀親次



志賀 親次(しが ちかつぐ、永禄9年(1566年) -  没年不詳)は安土桃山時代の人物。志賀氏の一派北志賀家当主。志賀親守(道輝)の孫で志賀親度(親慶、道益)の子。親善。少左衛門尉。

親次の北志賀家は大友三家の一角である志賀氏の嫡流であり、祖父親守・父親度の時代には南郡衆の筆頭であった。

親次は武勇に優れ、母が大友宗麟の娘ということもあって重用された。1584年7月、黒木家永の守る猫尾城攻めに参加。同年9月に父・親度が主君の大友義統と不和になって失脚した為、19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。翌年にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。

1586年、島津氏が豊後に侵攻して来ると(豊薩合戦)、父の親度や他の南郡衆が島津氏に味方する中で、親次は居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、島津義弘や新納忠元が指揮する島津の大軍をわずかな兵力で何度も撃退した。豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし、父を自刃させる。その後は祖父の親守の後見の補佐を受け、宗麟の葬儀には祖父を代理として出席させている。キリシタンが禁教とされたが、親次は棄教を拒否した。

1592年の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため戦況を見誤り撤退を義統に進言してしまい、(撤退を進言した人物については、大友興廃記など、他の人物が進言したとの異説もあり、外山幹夫氏などは九州征伐で親次が活躍した事を妬んだ人物の中傷の可能性が高く、親次が主体となって撤退を進言したとする説に異論を唱えている。)これを敵前逃亡とみなした秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易されてしまい、親次も所領を失うこととなる。その後、親次は秀吉や福島正則、小早川秀秋、細川忠興にそれぞれ仕えたという。

親次は、島津の大軍を前にして見事な采配を見せたことから、豊臣秀吉に厚く絶賛され、また、敵将の島津義弘からも『天正の楠木』と絶賛されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

----島津を撃退した猛将。桶狭間もそうですが、寡兵で大軍を破る話が人を惹きつけるのはなぜだろう?
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