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カレー鍋



そもそもの発祥が、兵庫県姫路市にある和風居酒屋「喰い切り酒場 伝心望」のまかない料理からだと言われている「カレー鍋」。口づてなどで広まり、飲食店メニューを経て、家庭調理用鍋に使われる「つゆ」が市販されるようになった。

出典:J-CAST モノウォッチ
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鳩尾(みぞおち



みぞおちは、「水落ち(みずおち)」が変化した語で、飲んだ水が落ちる所という意味である。
「みぞおち」という形は明治以降から見られ、1603年『日葡辞書』では「Mizzuvochi」とされている。

漢字の「鳩尾」は、この部分の形が鳩の尾に似ているためで、「鳩尾」と「みぞおち」は別の語源である。
また、みぞおちは「心窩」ともいい、「窩」には「穴」や「室」といった意味がある。

出典:語源由来辞典

コンバージョン



商用目的のウェブサイト上で獲得できる最終的な成果。
オンラインショッピングサイトならば商品購入、情報提供サイトやコミュニティサイトならば会員登録などがコンバージョンにあたる。

不動産などの高額商品や、ビジネス向けのサービスなど、最終的なクロージングまでのハードルが高い商材の場合、ウェブサイト上では資料請求や問い合わせなどの一次的な成果がコンバージョンとなる。(図1参照)

サイトへのアクセス数に対して、コンバージョンに結びついた件数の割合をコンバージョンレートと呼ぶ。

出典:インターネット広告用語辞典

毛利高政



毛利 高政(もうり たかまさ、1559年(永禄2年)- 1628年12月11日(寛永5年11月16日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。豊後国佐伯藩の初代藩主。

森高次の長男。母は瀬尾小太郎の女。兄に毛利重政がいる。正室は木曾義昌の娘。子に毛利高定(長男)、毛利高成(次男)、娘(能見松平重長室)。通称は勘八郎。本名の諱は友重。官位は従五位下。豊臣政権下では民部大輔。江戸時代より伊勢守。

尾張国海東郡荒子荘花筏村で生まれた。当初、森姓を称した。父高次(九郎左衛門)が羽柴秀吉の馬廻衆であったことから、高政は1577年(天正5年)より出仕している。1580年(同8年)、森家は播磨明石郡松ノ郷で3000石(一説には6000石)を宛がわれた。1582年(同10年)、本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉は主君の仇を討つべく、中国大返しを計画する。このとき毛利氏へ人質として送り出されたのが高政と兄重政である。高政は毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にはある。以後、毛利姓を名乗るようになる。

1583年(天正11年)の大坂城築城、1586年(同14年)の方広寺建立の際には石材運搬の奉行を務めている。1587年(同15年)、九州平定では舟奉行。1589年(同17年)、山城国の検地奉行を石川貞通とともに務める。1590年(同18年)には兵600を率いて小田原攻めに参陣、戦後に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の際には陪従している。1591年(同19年)、朝鮮出兵の備えとして対馬に陣城普請を命じられ、清水山城・撃方山城・向ノ平砦を築いている。1592年(文禄元年)、文禄の朝鮮出兵では舟奉行を務め、春川合戦で敵将元豪を生け捕るという武勲を立てている。

1595年(文禄4年)9月、豊後国日田・玖珠二郡の内で2万石(一説には6万石ともいう)の朱印を受けた。併せて両郡内の蔵入地も預けられ代官を兼務した。日隈城(隈城)を居城とし、五重の天守、三重の月見櫓等を増築している。玖珠に築いた角牟礼城も近年、発掘調査によって大規模な遺構が確認され、学術的に注目されている。1597年(慶長2年)、慶長の朝鮮出兵では軍目付(いくさめつけ)に任命され、南原城攻略では軍功を挙げている。1600年(同5年)、関ヶ原の戦いでははじめは西軍に与し、丹後田辺城(舞鶴城)攻めに参加するも途中、東軍に寝返った。藤堂高虎のとりなしが改易を免れた要因の一つとなった。

1601年(同6年)、豊後海部郡(現在の大分県佐伯市周辺)2万石へ転封となった。1606年(同11年)、佐伯城を完成させた。前後して城下町の普請も行っている。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によれば慶長11年、「エルナンド・デ・サン・ヨゼフ師(アウグスチノ会)は、当時豊後から佐伯近くに行き、城下に小さな修道院を建て、聖ヨゼフの保護の下に置いた。伊勢守殿(高政)という大名は一度改宗したことのある背教者であり、自費で天主堂、もう一つさらに大規模な修道院を建てた」とある。

外様大名だったので江戸城、駿府城、名古屋城、大坂城と立続けに手伝普請を命じられ、また参勤交代、江戸藩邸の造営・維持費用等も加わり、藩財政は極度に悪化する。

1628年(寛永5年)11月16日、70歳で死去。後を次男・高成が継いだ。墓は高輪東禅寺。法名は養賢寺院殿前勢洲剋史乾外紹元。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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